武田信玄の終焉の地はどこか。現在まで謎に包まれている。
武田信玄は、1573年1月三方ヶ原の戦いで、徳川家康に勝利した後、
1573年2月三河野田城を落とした頃、重態に陥り、伊那街道から
三州街道を経て、甲州へ戻る途中になくなっている。
有力な説の順番で見てみると、
(1)現在の長野県阿智村駒場
(2)現在の長野県根羽村横旗…
伊賀街道(国道163号)沿いの広瀬集落にあって、石段と高木が
迎えてくれるのが広徳寺である。
広徳寺の開創は平安時代といわれているが、詳細は不詳である。
祀られている阿弥陀如来像と釈迦如来像は室町時代に、廃寺となった
上来寺の塔頭・広徳寺に移されたとか。
本堂前の梅の古木が小ぶりながらも、三重県の名木に指定されている。
…
安国寺は、南北朝時代初期に夢窓疎石の提言により、後醍醐天皇以下の
南北朝争乱の犠牲者を弔うために、66ヶ国68ヶ所に安国寺と利生塔の
建立が、足利尊氏と足利直義によって行われた。
三河安国寺は1339年開創され大いに栄えたといわれたが、戦国時代
に入り、兵火により荒れ果てた。
万治年間(1658~61年)再興され、その後地元の…
外見上、茅葺屋根のお堂が減っている昨今、茅葺の上からトタンなどの板金を
葺いて、茅葺の傷みを減らしたりなどの処置をしているお堂も多い。
ここ丹波地域では、お寺だけでなく民家でも見られる。
三和町大身集落に建つ長福寺の屋根もその一例である。
板金の種類は不詳であるうが、見事なフォルムである。
長福寺の開創は寛永年間(1624…
岐阜市北東部に位置する中屋西の県道94号に面して、中屋公民館と
薬師寺が接して建っている。
無住の小さな本堂と祠の大師堂、観音堂、稲荷社があるお寺に、
円空初期の円空仏2体が祀られている。
私が訪問した時は拝観できなかったが、円空仏の広がりを見てくると、
円空の遊行地を追いかける気にもなる。
<岐阜県のお寺一覧>参照
…
足羽山東麓に建つ通安寺は、福井藩家老・狛氏の菩提寺で、境内には
笏谷石製の五輪石塔と宝篋印塔の墓塔群が建っている。
福井藩狛氏の祖・狛孝澄が、1603年徳川家康の次男で初代福井藩主・
結城秀康の次男・松平忠昌の部屋付となったのが福井藩狛氏の
始まりで、1624年松平忠昌が藩主となった頃、狛孝澄は家老となっている。
狛孝澄の先祖…
正覚寺は、江戸時代中期に了雲が開いた念仏道場が始まりと伝えられ、
1878年正覚寺となっている。
1930年小松大火により焼失したが、1979年本堂が再建され、山門は
能美郡役場に設置されていた門を移築している。
この山門は、もとは小松城北門の遺構といわれるが、不詳である。
小松城の遺構は少なく、天守台と石垣の一部が残され、鰻…
京丹波町のシンボル<美女山>は、美女が横たわっている姿に似ている
とか、美女の眉に似ているとかなどの由来が幾つか語り継がれている。
人気のハイキングコースである。
その西北麓に建つのが大円寺である。
府道80号から山裾を登る参道へ入りまもなく、もみじの木々に覆われた
石段参道が待っている。
山門を潜ると、目の前に美女山が現れ…
神戸(かんべ)城跡近くに、イチョウの大木が目立つ慎福寺がある。
戦国時代,慎福寺は神戸城主・織田信孝(神戸信孝)の祈願所で
大いに栄えたといわれている。
織田信孝は織田信長の三男で、1568年信長が伊勢平定後、
神戸城主・神戸氏に婿入りし、後に神戸城主となっている。
本能寺の変後、明智光秀の討伐に総大将として活躍したが、
そ…
江戸時代後期の浄土宗僧・徳本上人は、厳しい苦行修行を通して、法然上人の
教えを体現し、多くの弟子を育てた念仏聖と称されている。
全国を巡り、徳本名号といわれる六字名号<南無阿弥陀仏>を残している。
その高弟である徳住が、大樹寺別院として開創したのが九品院である。
修行道場としての性格が強い九品院は、禅寺同様に境内隅々まで
清掃…
妙日寺は<日蓮聖人父母顕彰の寺>と呼ばれ、聖人父母の供養塔が
建てられ、その菩提を弔っている。
供養塔は、江戸時代初期の柳生但馬守の寄進といわれている。
聖人の父・貫名重忠は、1156年井伊氏から分家した政直が貫名氏を
名乗り、その4代目が重忠で、貫名氏の居館跡が妙日寺境内といわれている。
重忠は平氏に与したことから(諸説あり…
篠山市菅の集落に、ゴルフ場丘陵を背に建つ金照寺の山門は、
篠山城の門を移築した遺構といわれている。
その経緯は不詳であるが、お寺が所蔵する三角縁神獣鏡の経緯
は、1862年金照寺近くのヨセワ古墳から出土した三角縁神獣鏡が
篠山藩主に届けられ、その後1950年に金照寺に伝わったとか。
金照寺の開創については不詳である。
境…
岐阜市北東端に位置する三輪地区の田畑にある小さな森の中に、
浄音寺は建っている。
浄音寺は<落語の祖>といわれる安楽庵策伝ゆかりのお寺で、
毎年、顕彰落語が催されている。
策伝は、飛騨高山藩主・金森長近の弟といわれ、1561年7歳の時に
浄音寺で出家し、その後諸国を巡り、1596年戻って浄音寺の住職
を17年間務めている。
…
諏訪湖西岸の県道16号小坂地区にある、小さな殿崎公園から山手に細い道を
登って行くと、こじんまりとした小坂観音院大門が現れる。
駐車場はその先200mほどにあり、そこから観音院の樹林(寺叢)を望む。
大門を潜ると、眼前にヒノキの一種サワラ(椹)の大木参道が飛び込んできた。
参道を進むと、右手に諏訪湖と雲に見え隠れする八ヶ岳連峰が…
雲海に浮かぶ城<天空の城>で有名な城といえば、
(1)竹田城跡(兵庫県朝来市):立雲峡からの展望
(2)大野城(福井県大野市):戌山からの展望
(3)備中松山城(岡山県高梁市):備中松山城展望台からの展望
大野城展望の戌山への最短ルート入口が洪泉寺であったが、近年
そのルートが廃止となり、登れなかった。
洪泉寺を訪れ、登山も…
美山町の北端、西の鯖街道と呼ばれる周山街道が、若狭に入る直前の
美山町盛郷(もりさと)地区に建つのが総持院である。
実は、この総持院裏手にあるはずの山水寺薬師堂が探索目標であったが、
その薬師堂を見つけることが出来ず、山水寺と同一の山号:日盛山を
持つ総持院に参拝した。
山号が同じことから、総持院と山水寺は関係が深いのだろう。…
兼六園の東南隅から小立野へ下る八坂(はっさか)は、急勾配の
道路と石段歩道、脇には土塀が連なり、趣のある風景を造っている。
この八坂を下った右手に松山寺の山門があり、八坂と山門の
写真がパンフレットに使われている。
松山寺の隣に建つのが鶴林寺である。
鶴林寺は、1325年吉野谷村(現在の白山市の一部)
に開創されたと伝え…
741年聖武天皇の詔により、全国66ヶ国68ヶ所に国家鎮護・国土安穏
のために国分寺を創建している。
因幡国分寺の創建は不詳で、758年万葉集の編纂者といわれる大伴家持
が、因幡国司として国分寺の近くにあった因幡国府に赴任した時に、
国分寺が既に建っていたかも不詳である。
家持は759年の新年を迎えて詠んだ歌が万葉集の最後の歌…
長崎県は海外への門戸が開いていた歴史から、色々な面で
異国情緒あふれる風景が残っている。
長崎市の中国風寺院、平戸市のお寺と教会の風景などは他県では
見られないお寺の風景であろう。
私がお参りした長崎県のお寺を紹介します。
寺名をクリックするとお寺の概要と写真があります。
崇福寺(長崎市):中国風の<国宝>伽藍
興…
2018年7月世界文化遺産に登録された<長崎と天草地方の潜伏キリシタン
関連遺産>の2つの要素
原城跡(南島原市)と天草の崎津集落(天草市)を結ぶ交通経路の一部
フェリーが口之津~天草鬼池で、今後観光ルートとして賑わいをみせるだろう。
私は早速、11月にこのルートを使って訪れ、口之津の高台に建つ玉峯寺を
訪れた。
訪れるま…
宍粟市山崎町は、古来因幡街道の拠点であったが、1615年姫路藩主・
池田輝政の四男・輝澄が山崎藩を立てたが、その後藩主がいくつか
変わり、1679年本多氏が入って明治維新まで続き、山崎町の基礎を
築いている。
城はなかったが陣屋が置かれ、城下町として発展した。
藩主本多氏の菩提寺が大雲寺である。
大雲寺の建つ一帯は、山崎藩の…
浅野長治が、広島藩の支藩として1632年三次藩主となり、1633年長治は
菩提寺として鳳源寺を開創しているが、長治の家臣・今中勘太夫は同年
自らの菩提寺として、増上寺の欣誉休山を勧請開山として常運寺を
開創している。
常運寺は三次の代表的な照林坊の裏に建っている。
<広島県のお寺一覧>参照
(1)寺名:常運寺(じょう…
県道27号軽部下から山あいの参道を登って行くと、楼門形式の山門が
迎えてくれる。
山門を回り込んで更に登って行くと、山裾に浄土寺伽藍が忽然と
現れてくる。周囲は幾ばくかの田畑と小高い山に囲まれたかっての
古寺を想像できるが、現在の境内・伽藍は整備され爽やかさを感じ
さてくれる。
本堂の内陣は室町時代の様子を残し、外観は江戸時…
明治3年(1870年)、徳島藩家臣が洲本城代家老稲田氏の屋敷などを
襲い、稲田氏家臣の無抵抗にもかかわらず稲田氏側に多くの死傷者を
出した<庚午事変>の首謀者10名に、法制史上最後といわれる切腹刑
が言い渡され、蓮花寺で4名、万福寺で4名が切腹している。
この事件により、淡路島は徳島から兵庫県に編入されている。
蓮花寺は、…
桂川支流が流れる日吉町四ツ谷風呂ノ本の谷筋山麓にポツンと建つのが
威音寺である。
造成中の参道を登っていくと、宝篋印塔などの石造物がいくつか安置され、
これから何が見つかるか楽しみを持って登りきると、本堂と廃れた庭園跡
があった。
庭園跡から古の姿を想像するのが出来なかった。
他に石造物がないか探索したが見つからず。
…
東大寺ミュージアムの裏側に建つ正観院は、1844年現在の正倉院境内に
開創された。現存する東大寺塔頭では最新の塔頭である。
明治8年(1875年)、正倉院が東大寺から明治政府内務省管轄に
移った際に、正観院は一旦閉じて、1917年現在地に再興されている。
<奈良市のお寺一覧>参照
(1)寺名:正観院(しょうかんいん) …
蓮華寺は天長年間(824~834年)に慈覚大師円仁よって開創されたと
伝えられるが、その詳細は不詳である。
本堂は懸造りで、本尊は秘仏の石造地蔵菩薩。
本堂内に安置されている十一面観音坐像は10世紀頃の造像と考えられ、
近年補修され古の姿を取り戻したといわれている。
<兵庫県のお寺一覧>参照
(1)寺名:蓮華寺(れん…
妙国寺の斜め前に門を閉ざして建つ本受寺は、西宗真(洗礼名ルイス)の
菩提寺である。
西宗真はもと肥前大村藩士であったが、マニラルソン島に渡り、そこを
拠点に日本貿易を行っていた。
江戸時代になって、徳川家康の目にかかり、駿府で謁見し、海外事情を
話し、朱印船貿易を許可され、財を成した。
元和年間(1615~24年)堺に移り、…
西国三十三所観音霊場第21番穴太寺西の細い路地を入った突き当りに
建つのが真福寺である。
真福寺の若い住職は、地域との繋がりを積極的に勧めておられ、
椿コンサートや法話会などを行われている。
地域とお寺の在り方を模索され、今後の活躍が楽しみと感じた。
真福寺は、1650年宇治市興聖寺の第5世萬安英種によって開創
されてい…
山本山の麓に位置する西阿閉(にしあつじ)集落に建つ竹蓮寺の
宝冠阿弥陀如来像は、地元では永らく観音菩薩として祀られてきた。
一部補正が施され観音像に見えるが、もともと宝冠阿弥陀如来像で
ある。
宝冠阿弥陀如来像は数は少なく、真言密教系と天台宗常行系に二分
され、竹蓮寺の阿弥陀如来像は密教系と考えられている。
有名な宝冠阿弥陀…
西禅院は平安時代後期に開創されたと伝えるが、詳細は不詳である。
東国から京へ戻ったばかりの親鸞聖人62,3歳頃、聖人は高野山に
入り、西禅院の地に庵を結んで修行したといわれている。
もともと西禅院の本尊は観音菩薩であったが、聖人が自ら彫ったと
いわれる阿弥陀如来をその後本尊とした。
現代では、松下幸之助氏が長らく逗留された…
1272年親鸞聖人の大谷廟堂が、現在の知恩院塔頭・崇泰院の地に建立され、
1321年大谷廟堂が本願寺となった。
1465年蓮如上人の時代に、比叡山の衆徒によって本願寺は破却されたが、
蓮如上人に帰依していた越前の井上願知が親鸞聖人の墳墓を守護し、
大谷道場とした。
その後、二度にわたり破却されたが、1589年井上願知の子孫・祐…