加賀初代藩主前田利長が1609年高岡城に入り、1611年鋳物師7人を
現在の金屋町に集め、銅器の生産を始めたのが高岡鋳物の始まりで、今や
高岡市の銅器生産量は、日本全体の95%を占めるに至っている。
金屋町通りの石畳町並みは<重要伝統的建造物群保存地区>に指定され、
観光客も多い町である。
その金屋町通りに面して建つのが最…
すすきの地区の一角に建つ中央寺は、1874年開創され、以降
北海道における曹洞宗の布教拠点となっており、札幌五大寺の
一つとなっている。
札幌五大寺とは、
中央寺、新善光寺、経王寺、本願寺札幌別院、真宗大谷派札幌別院
現在、北海道の寺院数は約2300ヶ寺、その内曹洞宗は約450
である。禅宗のお寺では、ほとんどが曹洞宗であ…
伊賀市阿山地区の阿山小学校の校庭に、校門を入って目の前にすっくと
立つセンダンの木、学校のシンボルとして愛され、樹勢旺盛な木であるが、
私の訪問時が冬で、葉のない姿であったが想像できる。
このセンダンは、1908年近くの金台寺から移植されたとか。
金台寺の開創は不詳であったが、江戸時代には河合郷浄土宗の中核寺と
して栄えた…
倉敷美観地区にあって、鶴形山トンネルの上に建つのが観龍寺で、
境内からは美観地区を一望できる。
観龍寺は985年、現在の倉敷市西岡にある西安寺龍昌院(本坊慈照院)
の塔頭宝積院として開創されたと伝える古刹で、室町時代に
現在の地区に移転、1624年現在地に再建されている。
二度にわたる火災により、寺宝などを遺失している。
…
高知県東部にあって太平洋に面する、四国一小さい町、田野町の
観光スポットとなっている長法寺の臥龍梅
室戸岬へ向う途中、梅の花は過ぎていたが立ち寄ってみた。
観光スポットといっても、お寺は観光寺でもなく、わびしく建つ
小さなお寺だが、もくもく探索のお寺の風情である。
臥龍梅は全国で見かけるが、この臥龍梅は全国5指に数えられる
…
鎌倉幕府の御家人・金子広家が、建長年間(1249~55年)に
所領の新居浜に移り、金子城を築城し、1585年落城するまでの
300年間、新居浜を領した。
1283年、金子頼広は現在の慈眼寺の地に居館を築き、金子山
北麓に、金子氏の菩提寺を開創し、これが慈眼寺の始まりと伝えられている。
金子氏が滅んだ後の1613年、金子氏の子孫…
豊浜の街中に、まだ新しい多宝塔が建つのが宗林寺である。
宗林寺は、708年の開創と伝えられる古刹で、新四国曼荼羅霊場
の一つである。
なお、多宝塔は2013年の建立で、釈迦三尊が祀られている。
庫裡の前のクロガネモチは主幹の半ばで、上部を失っており、樹勢
旺盛な姿は見られず、幹には大きな空洞も見られ残念だ。
しかし、かっ…
京都東山の東に広がる山科盆地、その中心地西部に建つ勧修寺(かじゅうじ)
は900年に醍醐天皇によって開創された名刹で、真言宗山階派大本山である。
四季折々の花木が彩る庭園は、氷室池を中心とした回遊式庭園である。
もみじの本数は多くはないが、それなりの紅葉狩りは楽しめる。
見頃のピークは過ぎていた
参拝者もチラホラと 入山料40…
江戸時代後期の僧で書家でもあった小松島の閑々子(かんかんし)は、
奇行の人として<阿波の良寛>とも呼ばれていたが、その徳を慕う
人も多く、書の遺作が多く残されている。
その彼が1811年、修行を終えて徳島に戻り、その数年後に豊林寺跡に
草庵を築き成願寺として再興したといわれている。
豊林寺の前身は、法然上人の弟子・成願が13世…
京奈和道北田辺iCを10時過ぎに出る。
今日は、例年の南山城紅葉狩りに
まずは、一休和尚の<一休寺(酬恩庵)>(京田辺市)に入山
入山料500円
例年に比べて落葉が早く、5日前がピークとか
茶室前の紅葉は、例年と変わらず鮮やかな赤
今日は日曜日とあって、参拝者多し
山門
…
県道27号から別れて山間部へ入り、1.5kmほど進むと、右手に
池と伽藍が見えてくる。
池(広沢池)の前に立つと、池越しに、左に禅宗様の観音堂、中央に
本堂、右手に庫裡、宝蔵庫などが建ち、池の手前には、開基和智氏実の
墓(五輪石塔)と、周りの木々にはモミジもあり、晩秋の紅葉は
池に映え、一幅の絵を創り出すことだろう。
大…
倉敷市真備町の北東端に位置する辻田地区の山麓にあって、小字堂応寺
集落の住宅の横に建つ宝篋印塔は<堂応寺宝篋印塔>と呼ばれ、かっては
裏手に堂応寺(導応寺)があったと考えられている。
それは、裏手の墓地から<導応寺地蔵堂瓦(1322年)>が発見された
ことによる。
堂応寺のことは不詳であるが、宝篋印塔と瓦が、鎌倉時代末期にお寺…
戦国時代、亀井氏によって城下町が形成され、因幡と伯耆の結節点として、
明治維新まで栄えた。
その城下町の主要街道である<鹿野往来>は、現在もその面影を残す
町並みで、その東端に建つのが浄徳寺である。
浄徳寺は、寛永年間(1624~44年)に鹿野北部に開創され、
1761年現在地に移って再興されている。
現在の浄徳寺には、獅子…
1601年土佐藩主となった山内一豊が、1602年暴風雨に遭い難儀して
いる時に、地蔵菩薩の化身となった僧に、船の楫取りによって助けられたと
いわれ、その地蔵菩薩が津照寺の本尊地蔵菩薩で、それ以来<楫取り地蔵>
と呼ばれるようになったとか。
そんな経緯もあってか、津照寺の建つ室津港は土佐藩によって整備され、
マグロ漁港として大い…
お寺の仏堂建築様式は、大きく分けて、和様、大仏様(天竺様)、
禅宗様(唐様)に分類され、それらの折衷も多くなっている。
禅宗様は、禅宗が普及し始めた鎌倉時代から禅寺で多く見られる
建築様式である。
宇和島市の正法寺観音堂もその禅宗様で、愛媛県では最古類に
属する禅宗様であり、茅葺屋根の上からトタン板で覆い、茅葺の
損耗を防い…
三豊市で初冬の風物詩といわれる<大坊市>は食いもん市とも呼ばれ、
多くの参拝客で溢れる一大行事が讃岐本門寺で十一月下旬に行われる。
本門寺は、日蓮宗系の日蓮正宗本山で、総本山は富士山麓の大石寺で
あり、数多くある日蓮宗の分派の一つである。
讃岐本門寺は、1325年の開創と伝え、1946年日蓮宗を離脱し、
日蓮正宗に参加している…
濃霧の中、舞鶴若狭道春日ICを8時半に出る
丹波の紅葉狩りを楽しみながら、未知のお寺を巡る
9時半頃には霧も晴れて、快晴の丹波を巡る
濃霧の中の<万松寺>もなかなかのものだ 静寂に包まれた
佇まいに耳を傍立て、霧の流れる音は~
霧の中の万松寺
万松…
徳島市寺町の一角に、お寺が建ち並ぶ中にあってこじんまりと
建つ般若院は、徳島藩祖蜂須賀家政の移動と共に移転し、1596年
現在地に落ち着いたといわれている。
最初は、蜂須賀氏の尾張蜂須賀(現あま市蜂須賀)に開創されたと
伝えるが、その後播磨~徳島と移転したとか。
蜂須賀氏と深い関係があったと思われる。
なお、現在の住職は多彩…
生口島の瀬戸田町瀬戸田といえば、平山郁夫画伯の生誕地であり、
耕三寺などもあり、観光客で賑わう町である。
その平山郁夫画伯の平山家の菩提寺が法然寺であり、法然上人の
ゆかりの地である。
法然上人が1207年、建永の法難により讃岐に配流となり、生口島の
光明坊に縁あって招かれたが、その折に草庵を築いて光明坊へ通ったと
いう伝承…
玉野市といえば、1917年以来造船の企業城下町として、また、
かっては四国との連絡船玄関口として知られているが、私が訪れた
2020年6月の2ヶ月後に、船舶建造から撤退との発表があり、
玉野市に衝撃が走っている。
その造船所を見下ろす丘に建つのが大聖寺である。
大聖寺は1946年に開創された新しいお寺で、造船所からも
よく見…
北陸道米原ICを8時過ぎに出る
伊吹山西麓から北麓へ、姉川沿いに奥伊吹スキー場へ
紅葉の始まった山間集落のお寺を巡るが、イチョウが
特に見事で、ゆっくり紅葉を楽しむ
伊吹山西麓
姉川を遡る
温見親水公園
…
伝承によると、戦国時代因幡の武将で、鳥取城主ともなった鵯尾城主
武田高信が謀殺されたと伝えるお寺が大義寺である。
一時は、鳥取城主として勢いもあったが、戦国時代の抗争に敗れ、
鵯尾城主となったが、そこも追われる最期を迎えている。
大義寺は、16世紀半ば武田高信の寄進により開創されたと伝え、
1597年曹洞宗のお寺として再興され…
吉野川(紀ノ川)の源流域に位置し、吉野杉の林業の中心地である
川上村にあって、国道169号から西へ、山間部に入った大滝地区の
山腹に龍泉寺は建つ。
そこから山越えで1km、<蜻蛉の滝>が待っている。
龍泉寺を訪れたのは、歌人斎藤茂吉が1930年龍泉寺を訪れて
詠った歌の歌碑を拝観すべく。
茂吉の歌
<滝のべの龍泉寺にて夏ふ…
三田市の山間部にある小野集落に、ポツンと建つ小野大日堂には
飛鳥時代の伝承がある。
中大兄皇子がこの地を訪れ、ここの領主の娘に心を寄せ、妃とし
やがて皇子が生まれたが、妃は亡くなり、その後間もなく皇子も
亡くなったとか。
それから400年後、東光山の花山院菩提寺に隠棲していた花山法皇が
この伝承を聞き、妃と皇子の菩提を弔うた…
田辺市と白浜町に囲まれた上富田町は、山間地でありながら人口増の
珍しい自治体である。
山間部岡地区の山腹に建つ普大寺を訪れたのは、1396年の板碑を
拝観するためであったが、住職との会話の中で、普大寺の名前を持つ
お寺は全国で、ここが唯一で、ありそうな名前でありながら唯一とか。
かっては、浜松市にあったそうだが、今は廃寺となっ…
今回は主に呉須を使って絵付け
素地は信楽白粘土、釉薬は石灰透明釉を使用
結果としては、信楽粘土でも染付の色合いは出ている
<YUさんの作品>
<MIさんの作品>
<Uさんの作品>
<YAさんの作品>
<Hさんの作品>
…
吉野山系の船岡山西山腹を走る県道37号から、少し林の中へ下りた地に
仏舎利塔が建っているが、この仏舎利塔は日本山妙法寺という
日蓮宗系の新興宗教団体が1976年に建立したもので、一般的な
仏舎利塔とは異なる宝塔形式になっている。
これは、吉野山が風致地区となっているため、デザインに工夫が
施されたとか。
(1)寺名:日本…
宝塚市最北端に位置する上佐曽利集落の山麓に、大きな茅葺の庫裡が
目立つのが萬正寺である。
隣には祇園信仰の素戔嗚神社があり、かっては神仏習合の神社とお寺
であり、参道入口には鳥居が建っている。
萬正寺は室町時代の開創と伝えるが、詳細は不詳である。
住職の話によると、茅葺の維持管理には苦労が多いが、先祖の遺産を
なんとか護りた…
1348年の<四條畷の戦い>は、南朝と室町幕府(北朝)の最後の
大戦となり、南朝の衰えが始まった戦いであった。
この戦いの地が、十念寺の建つ北条地区を中心とした地域であり、
南朝軍棟梁・楠木正行の墓所、正行を祀る四條畷神社などがある。
この戦いの200年後になっても霊が休まらずと、僧が十念寺を開創し、
楠木正行と一族郎党の霊を…
<まんが日本昔ばなし>の一話に首切り地蔵があるが、日本全国に
首切り地蔵の石仏がある。
その名前の由来については様々で、その土地に伝わる民話に基づく
由来が多い、しかし石仏そのものは地蔵菩薩で、当尾の首切り地蔵
は阿弥陀如来と珍しい石仏である。
この首切り地蔵の名前の由来も諸説あるが、一般には、近くの処刑場
にあったことから…
<お伊勢参らばお多賀へまいれ>といわれる多賀大社の鳥居近くに
建つのが西徳寺である。
西徳寺は、736年聖武天皇の勅願により、法性院が開創され、それが
西徳寺の始まりと伝えられる古刹である。
一時は、多賀大社の別当となったこともあるとか。
1255年、親鸞聖人が関東から京へ帰られる折に、逗留されたことも
あり、1504年浄土…
田辺市稲成町の県道35号と県道208号が交差する山域は、
岩峰が連なる<ひき岩群>と呼ばれる岩場で、その中の岩屋山
山腹の岩窟に建つのが岩屋観音である。
私は山頂まで登らなかったが、山頂からの眺望は絶景といわれ、
再度挑戦してみたい。
岩屋観音は、京都神護寺の中興の祖・文覚上人によって開創された
と伝わる厄除け祈願のお寺…